2008年2月11日 (月)

特別支援学級

病院のロビーに、院内学級の子どもたちの作品がいつも飾られています。時々、昔を思い出しながら足を止めて見てしまいます。

自分が院内学級に通っていた頃(退院してからもメンテナンス治療で入院すると短期でも頼んで通わせてもらってました)、もう何の作品だったかは覚えていませんが先生からデパートの作品展で飾るよと言われた事がありました。

うれしいような恥ずかしいような半々の気持ちで見に行った記憶があります。
でも、覚えているのはそれが特殊学級の作品展だったこと・・・
当時の自分にとっては大変なショックだったんですよね。あの頃は学校にろくに通えず体育も見学ばかり・・・自分のプライドと言えば成績が多少よい事くらいでしたから。

今になって考えれば何て事ない話ですし、不快に思う方がいるかもしれません。
自分からは縁遠いものと見下す感情があったのは確かです。知らず知らず自分が見下していた側に回っていたのがショックだったんです。

今は特殊学級の名称はなくなって、特別支援学級と言うのですね。

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2007年1月20日 (土)

プレドニン(闘病記8)

プレドニンは副腎皮質ホルモンあるいはステロイドと言われる薬の一種です。
闘病中に使った抗がん剤のことは以前書きました。今回はプレドニンについて思い付いたことを書いてみたいと思います。

プレドニンに限らなければ、ステロイドを使うことは日常の診療の中でもしばしばあります。わたしが専門としている新生児医療においても、血圧低下、低血糖なんかで使うこともあれば、慢性肺疾患と言われるやっかいな病気の際に仕方なく使うこともあります。
新生児以外の小児科でもネフローゼ(腎臓の病気)、気管支ぜんそく、アトピー性皮膚炎、白血病、膠原病などホントにたくさんの病気の治療薬として使われています。

これだけの病気に効果があるよい薬ですが、特にアトピー性皮膚炎で軟膏として使う際には、お母さんから思わぬ強い拒否反応が出ることがあります。ここでアトピー性皮膚炎治療の詳細を書くことはしませんが、いわゆるアトピー商法にからんで出回っている情報によってステロイドが悪い薬と思い込んでいるお母さんがたくさんいます。外来でステロイドが恐いと訴えるお母さん達は、ステロイドを薦めてくるわたしのような医者も悪いやつと思っているかもしれません。わたしはステロイドの恐さを実体験として知ってるんですけどね。

悪性リンパ腫の治療においてもステロイドは重要な役割を果たします。わたしの場合、治療開始まもなくからステロイドはずっと飲んでいました。あのちっちゃくて飲み込み損ねると苦い薬・・・。
入院して3ヶ月ちょっと経った頃、いわゆる試験開腹を目的として大学病院の外科に転院となりました。ところが入院したのになかなか手術となりません。当時、聞いた話としては執刀する助教授が出張でいないんだとか・・・。抗がん剤の治療は中断されていて、その間、大量のプレドニンを飲み続けることになりました。そうこうしながら手術が終わり元の病院にもどって少しして、プレドニンの恐ろしい副作用が出てしまいました。入院から半年くらい経った頃のことです。腰を曲げた途端に激しい痛みが・・・。これ以前も以後も体験したことのない激しい痛みでした。プレドニンの副作用で骨が脆くなり、腰の骨がつぶれてしまいました。闘病中この寝たきりの時期がもっとも辛かったと思います。あまりの激しい痛みだったため、恐くてなかなかリハビリを始めることができませんでした。きっと本当はもっと早く歩くことができたはずですが、自信が持てずにかなりの期間ベッドの上で過ごすことになりました。この時に励ましてくれた看護実習生(前に書いた人です)がいなかったら、もっと長くベッドで過ごしていたでしょう。治療が終わってからもしばしば腰痛が出て、大学時代かなりひどい時もありました。幸いながら今はほとんど痛むことはありません。

ステロイドはよく切れる諸刃の剣です。昔からある古典的な薬ですが、これで命を救われる患者は今でもたくさんいます。免疫の研究がもっと進んで自在に免疫を操れるような時代になれば、昔はあんな副作用もある野蛮な薬を使っていたんだと振り返る日がくるでしょう。しかしながら、その日が来るまではステロイドが重要な薬であることに違いはありません。

わたしが腰痛で動けなくなった頃、こんな薬飲ませない!と母が主治医に言って、逆に叱られていたのを思い出します。

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2006年12月15日 (金)

ラジカセ(闘病記7)

入院してまもなくにラジカセを買ってもらいました。中学に入学するお祝いに買ってもらう約束をしていましたが、入院することになったのでちょっと早く買ってもらえることになりました。当時ちょうどステレオのラジカセが出回ってきた頃です。カタログで選んだのはソニーのステレオラジカセ。何でも買ってもらえそうな雰囲気でしたが、あまりに高いので気を使って二番目に高いのが欲しいと頼んでみたら買ってもらえました。このラジカセで初めて聞いたのは確かゴダイゴの「モンキーマジック」でした。「西遊記」ですね。ステレオで聴こえる音にワクワクしました。最近こんな新鮮な感動ないかも。
当時の病室にはテレビはなく、外泊すらできなかった半年以上の間このラジカセだけで外と繋がっていたわけです。入院した頃はまだ深夜放送は聞きませんでしたが、ラジオはよく聞いていました。ラジカセでもテレビの音声だけは聞けたりして。ローカルネタですが「ベストテン北海道」は毎日聞いてました。入院中にものすごく流行った「異邦人」久保田早紀、退院する頃にはテレビで見かけなくなっていたので顔知りませんでした。
当時ラジカセから聴こえていた音楽が本当に懐かしく思えます。中でも好きだったのはサザンオールスターズです。デビューが入院の年と一緒。「いとしのエリー」はいったい何度聞いたのかわからないですね。音楽を聞くと古い思い出が蘇ってきますが、その頃の音楽を聴くとほんと、センチメンタルな気持ちになります。入院の最後の方では中島みゆきさんが好きで深夜放送も聴くようになっていました。オールナイトニッポン懐かしいなあ。でも、昼間寝ていて深夜放送なんて不良患者でしたね。

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2006年10月 4日 (水)

看護実習生(闘病記6)

病棟には例年通り看護実習生が数人来ています。今来ている学生の中には男子学生も混じっています。いつも厳しい担当のナースも彼には何かいつもと違う雰囲気(笑)。やっぱり見た目も大事なの?

自分が入院していた頃にも病棟には看護実習生が来ていました。学生さんが担当するのは慢性疾患で、そこそこ落ち着いた病状の患者です。わたしも学生さんの担当となることがありました。いつも暇で暇で仕方ない病棟の子どもにとっては、いい気晴らしの相手になってくれます。その頃に担当してくれた看護学生で、いまだによく覚えている学生さんがいます。当時、大量に使ったステロイドの副作用で腰椎が圧迫骨折を起こして、ほとんどベッドの上で過ごす生活をしていました。そんな状態でしたが、腰椎穿刺(ルンバール)をしなければいけなくなりました。その日、主治医が不在だったため他のDrがやることになったのもあって、ものすごく不安になってしまいました。痛い腰に針を刺される恐怖と、いつもの主治医のDrじゃない不安とでパニックに・・・。腰椎穿刺はしっかりと患者が腰を丸めてくれないとうまくいきません。腰を痛がって丸まろうとしない自分を看護師も強引に押えつける事ができなかったんでしょう。結局その日は失敗となってしまいました。看護学生さんは処置の間ずっと必死な顔でわたしの手を握っていてくれました。その場ではまったく役に立っていなかった学生さんですが、その時の学生さんの顔や握っていてくれた手の印象は今でも鮮明に残っています。名前も覚えているんですが、今でも看護師を続けてるでしょうか?

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2006年9月15日 (金)

抗がん剤(闘病記5)

小児科病棟に移って抗がん剤の治療が始まりました。とは言っても、それが抗がん剤であることを知ったのはずいぶん先の事です。正確にいつだったかはよく覚えていないんですが。
かつてHPで書いた事がありますが、ぼくは使っている抗がん剤の名前は全部知っていました。エンドキサン、オンコビン、メソトレキセート・・・、覚えるつもりもないのにしっかり頭に入ってました。DrもNsもくすりの名前を口にも出すし点滴ビンにも書いてくれます。自然に覚えちゃいますよね、ふつうは。その頃の小児科病棟には何年も入院していてすっかり擦れている腎臓病の子どもがいました。彼らはたくさんの病気やくすりの事をよく知っていました。どんなくすりを使っているかで彼らにはその子が白血病だなんてすぐにわかってしまう訳です。DrもNsもそんなことにはきっとまったく考えは及んでいなかったんでしょう。
自分は悪性リンパ腫でしたから、入院中にこの診断名に到達する事はできませんでした。退院してから本屋さんで医学書を見て、知っている抗がん剤の名前を組み合わせてみると簡単に病名を知る事が出来ました。退院後、ちょくちょく治療で入院した時に自分と同じ病気の子が入院した事にすぐに気が付いてしまいました。もちろん誰にもそんな事は話しませんでしたが・・・。
わたしにとって抗がん剤は命の恩人でもあり、大変な苦しみをもたらしてくれもしました。エンドキサンのあとの激しい吐き気は今でも思い出すだけで苦しくなります。当時は今のように抗がん剤用の優れた吐き気止めは存在ませんでした。ほとんど意識がなくなるくらい吐き続けた事もありました。2~3日はそんな状態で本当に苦しい思い出です。オンコビンを注射する時のあのきな臭い感じ、アドリアを注射したあとの赤いおしっこを見てトイレで吐いてしまった事、どれもひどかったなあ。一緒に治療していた仲間、Drになってから治療した子たちを見ても、自分みたいに吐き気が強い子を見たことがありませんから、わたしの副作用はひどかったんでしょう。

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2006年8月19日 (土)

小児科病棟へ(闘病記4)

年が明けて放射線治療が始まりまもなくして、耳鼻科泌尿器科病棟から小児科病棟に移る事になりました。耳鼻科病棟はツギハギの病院の中では一番新しい棟でしたが、古い小児科病棟へ引越しです。6人部屋から3人部屋となりました。
小児科病棟って本当に騒がしいんですよね。大学病院なんかは違いますが、一般の小児科病棟は小さい子の泣き声でいっぱいです。赤ちゃんが泣くのは当たり前ですけど、隣のベッドにいるのはやっぱり辛いもんです。このあと3ヶ月くらいの期間、同じ部屋で過ごしたんですが同室の患者はどんどん入れ替わりでどんな子がいたのかまったく記憶にありません。
小児科病棟に移っても、すぐに院内学級に入ったわけではありません。しばらくの間は部屋で過ごすことになりました。どの位経ってから院内学級に入ったのか正確には覚えていないのですが、生活はけっこう変わりました。ただ、抗がん剤治療なんかで出席できない日の方が圧倒的に多かったんですけど。院内学級で勉強した思い出はほとんどないんですよね。それでも入院中の子どもたちにとって、とても大切な所には違いありませんでした。
この病棟に小児科医になってまた戻って来るなんて、夢にも考えていませんでした。小児科医として帰ってきた年の途中で、この病棟は役割を終えて新しい病院に引越しをしたんです。偶然ではありますが運命的な出来事でした。

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2006年8月 8日 (火)

放射線治療(闘病記3)

年末年始の外泊が終わって、病院に帰って待っていたのは放射線治療でした。と言っても当時の自分にはそれが何なのかはまったくわかりません。照射野を示す印が顔につけられて、人にじろじろ見られるのが嫌だったという印象くらいです。放射線治療室は病院の地下の静かな場所にありました。静かな音楽が流れていて何だか冷ややかな空間だったなあと言う記憶が残っています。照射がはじまると腫れていたノドは見る見るうちに小さくなっていきました。

どんな副作用があるのかは当然親にしか説明はなく、後に親からあの時にDrから耳が聞こえなくなるかもしれないと言われたと聞きました。実際に放射線の副作用なのかどうかはわかりませんが、一時顎関節症の症状がでていましたし、今は耳鳴りが常にあります。また、大きな音は割れて聴こえます。大音響のコンサートなんかは不快でしかありません。特に酔っている時は症状がひどく、大きな話し声くらいでも音が割れてしまって非常に聞きづらいことがあります。カラオケに行くのは苦手です。酔ってなければまだいいんですけど、お酒にも弱いし(笑)二次会はダメですね。あと、これも後遺症かはよくわかりませんが、左の軽い顔面神経麻痺があります。笑うと顔が左右非対称で、水を飲む時なんかに油断すると左の口角からこぼしてしまう事があります。

ただ、こんな事よりも何よりも放射線治療を受けた後の二次発ガンが心配でした。最近、原爆症認定の裁判があって、被爆した人たちのコメントを目にしましたが同じような気持ちです。不安が消えることはないんですよね。あまりにも理不尽な戦争が原因の被爆者とは根本的に立場は違っていますが・・・。

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2006年7月21日 (金)

入院(闘病記2)

市立病院の耳鼻科に紹介となったあと、すぐに入院となりました。年末の最後の週の事でした。
この入院の直前に父親と買い物に出かけました。ちょうどクリスマスの華やかな時期でした。中学校に入る時に買ってもらうと約束していた腕時計を、ちょっと早いけど買ってもらうことになったんです。当時はデジタルの時計が出てきた頃で、それが子どもたちの憧れでした。いつもは倹約第一の両親でしたが、気前よくセイコーのデジタルウォッチを買ってくれました。自分は何も知らされていませんでしたが、親はよくない事を聞いていたんでしょうね。当時はインフォームドコンセントなんて言う言葉もない時代です。仕方ない事ではありますが、子どもにまで説明してくれるような医療者は存在しませんでした。
入院したのは子どもはぜんぜん入院していない耳鼻科と泌尿器科の混合病棟でした。年末までに咽喉と首のリンパ節の2ヶ所から組織をとっての検査が行われました。慌しく検査が終わって、検査結果が出るまで年末年始は外泊となり家に戻りました。
厳しかった親はやたら気前がよくなり、ずっとわたしが欲しがっていたラジコンカーを買ってやると言います。一番欲しかった田宮模型のブラックカウンタック、全部合わせたセットで確か3万数千円だったはずです。父親が模型店に行って一揃えを買ってきてくれました。親の態度で気づくべきだったんでしょうが、まだこの時は自分が大変な事になっているっていうのにまったく気づきませんでした。

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2006年7月14日 (金)

がんの診断まで (闘病記1)

医療事故、誤診、医療過誤・・・こんな言葉を新聞やテレビでしばしば見聞きする現代と違って、わたしが小児がんになった頃にはこんな言葉を目にする事はあまりなかったでしょう。でも、わたしが入院したのは「白い巨塔」の田宮二郎によるテレビシリーズが放送された少しあと、田宮二郎さんが自殺したのは自分が入院中の出来事でした。続白い巨塔を原作にしたこのドラマの後半は医療訴訟が目玉だったわけですが、この時代はまだ現実味の薄いお話だったんでしょうね。
わたしに病気の徴候が現れたのは小学校6年生の夏の終わりでした。今思えば「耳管閉塞」の症状です。耳鼻科を受診して「中耳炎」の診断で通院。しばらく通ったもののよくならず、他の病院を受診してもやっぱりよくならない。3軒目は親が大きな病院にと、市立病院の耳鼻科に連れて行かれました。でも、診断は異常なし。わたしが症状を訴えると、「おかしいと思うのがおかしいのだ。」とDr。そこまで言われては引き下がるしかありません。それからしばらくして咽喉に違和感を感じて鏡の前で口を開けてみると・・・。腫れた扁桃でほとんど咽喉が塞がっている状態でした。近所の内科を受診して、抗生剤を飲んだものの変化なし。異常なしと言われた市立病院の耳鼻科に手紙を書いてもらって再び受診することになりました。今度は即入院予約です。症状が現れてから3ヶ月以上が経っていました。当時の医療は現代とは比べ物になりません。CT、MRIなんてない時代に腫瘍を見つけるのは困難だったでしょう。でも、子どもの訴えとはいえ、真摯に耳を傾けてくれていればきっと診断に到る事はできたはずです。これが自分と医療との関わりの出発点でした。

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2006年6月22日 (木)

小児がん治療の今昔

来週で治療を終了する子がうちの病院にいます。ほぼ2年の治療期間です。
思い浮かべてみるともう20年以上の開きがあるのですから当たり前ですが、治療や検査は大きく様変わりしています。変な話ですが、うらやましい気持ちにもなります。昔お子さんを亡くされたご家族にすれば、うらやましいなんていう事ではすまない複雑な感情があるかもしれません。
まず何よりも昔は点滴のためのよい留置針がありませんでした。翼状針で抗がん剤なんて大変でしたよ。漏れちゃ大変なくすりを固い針から入れるんですから。布団がぶつかっちゃいけないと、手をベッドに固定した上でミルクの缶を半分に切ったのを被せて布団が当たらないようにしてました。今のやわらかい留置針はいいですね。昔はすぐに腫れてしまう点滴を何度も刺し変えなきゃいけなくて、洗面器にぬるま湯を入れてそこに手を浸して点滴を待っていたのを思い出します。吐き気止めの進歩も大きいですね。昔はプリンペランとかコントミン、今はカイトリルはじめいい薬がたくさんあります。吐き気は闘病の中でも本当につらかった思い出です。外来治療になってからは木曜日が毎週抗がん剤の日でした。毎週木曜日は吐き気を紛らわせながら、ザベストテンを見ていました。懐かし映像で出てくるザベストテンの久米さん、黒柳さんを見るとそれを思い出します。検査の進歩も著しいものがあります。超音波もCT、MRIも何にもありませんでした。病気の広がりを確認するために試験開腹(今じゃほとんど死語ですね)、リンパ管造影(昔は婦人科医に必要な技術だったらしい)なんかをやって、その傷跡が両足の甲、お腹に残っています。
進歩した小児がん治療にもまだまだたくさんの改善点がありますし、何よりもまだ治癒率が100%じゃないですからね。専門の研究がどんどん進むよう期待しています。

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2006年6月12日 (月)

病棟の思い出

自分が病気になって入院したのはもう昔の事です。もう27年も経ってしまいました。このブログでは、散り散りに思い出した事を思いつきで書いていこうかなと思います。

まずは、前の記事でネフローゼだった方からの書き込みがあって思い出した事から始めます。
わたしが入院していた頃の小児科病棟は入院患者が非常に多くて、急性疾患病棟、慢性疾患病棟の二つに別れていました。自分達小児がんなんかの疾患は長期入院でありながら急性疾患病棟、慢性疾患病棟の大半は腎臓病の子達でした。当時の院内学級は小学校が2クラス、中学校1クラスの3教室で人数もけっこうたくさんいました。急性疾患病棟の子が慢性疾患病棟に立ち入ることはなく、しばらくは謎に包まれた場所でした。友達はそっちの方が多いのでうらやましいなと感じていた事もありました。あの頃一緒にがんばっていた仲間と再会してみたいなあと強く思います。

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