2013年4月22日 (月)

院内学級の先生との再会

日本小児科学会(@広島)に行ってきました。

そこで学会にシンポジストとして招待されていた、院内学級の恩師と再会することができました。過去の『院内学級』の記事でも紹介した先生です。
34年ぶりですよ。でも、先生ははつらつとして元気でまだまだ現役です。
当時の旭川市立病院の院内学級は大きくて、小学校低学年、高学年、中学校の3つのクラスがありました。先生も4-5人いたのかな。当時いた他の先生の話もして懐かしいことこの上なし。
先生は、「教え子が会いに来てくれて、これだから教師はやめられないよ。」とご機嫌でした。つらい入院生活の中で院内学級は自分の大きな支えでした。先生から、40年前に旭川に院内学級を立ち上げて、以来ずっと病弱児教育にかかわって働いてきたんだという苦労話を聞きました。
子どもの医療には辛いことも多いですが、報われる瞬間があるんですよね。

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2011年3月27日 (日)

大学病院を去る日

この春で大学病院を辞めることになりました。
今度はかつて所属したことのある市内のNICUへ異動です。医師になって20年目で10回目の異動(転職?)となります。けっこう多い方かもしれません。

この大学病院には本当にたくさんの思い出があります。さびしさも含めていろんな感情がありますね。

はじめて大学病院に来たのは、もう32年前!
この日のことは細かいことまで鮮明に覚えています。どんな日だったか、診察室や診てくれた先生の様子、信じられないくらいに思い出せます。

手術を受けた第一外科の病棟、通院した小児科外来、お世話になった先生たち(最後の主治医の先生はがんで若くして亡くなりました・・・)、手術から7年後に医学部の学生としてもどってきたこと。
合格の日はうれしかったなあ・・・母さんに早く知らせようと公衆電話まで一目散に走ったっけ。
卒業間際まで外科と小児科で迷って小児科に入ったこと。
大学病院の生活で一番濃い一年になった研修医時代のこと。
そのあとも新生児を専門とするための研修で、今回は教官として、ずいぶん長く大学病院と過ごしました。

大学病院には何とも表現できない複雑な感情が入り混じります。でも、この大学のキャンパスはやっぱり大好きですね。
去年から、当直明けはなるべく早く帰宅することになりました。明るいうちに帰れる日は大学の中をぶらぶら歩いて一駅向こうから電車に乗っていました。このキャンパスを離れるのはちょっとさびしい気持ち。
でも、今度の職場は大学の隣です。(笑)病院から大学病院まで歩くとかなり距離ありますが・・・。
NICUからは大学のキャンパスを眺めることができます。さびしくないですね。(笑)

大学病院を辞める一番の理由は体力的に辛くなってきた事です。
ここの仕事は地方の応援出張も含めると、病院にいる時間は月に330時間くらいになります。一ヶ月が30日だと、720時間・・・330/720時間です。
夜勤の日は寝られる日もあれば寝られない日もあります。今年に入ってからはずっと忙しくて、まとまって眠れる夜勤はまったくありませんでした。体力的にはかなり辛く、辞めることにしておいてよかったと思っています。

次の職場も正直あまり変わらないくらい忙しいのですが、それでも地方への出張がない分、休日も少し多いし多少楽かなと思います。まだまだNICUでの仕事を続けるために体を鍛えなきゃいかんなと考え中です。

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2010年4月 8日 (木)

息子の入学式

息子が、この春、小学校を卒業し中学校に入学しました。卒業式は当直明けで早朝から仕事をこなして、入学式は休暇を取って出席できました。

やはり自分の時と重ね合わせてしまいますね。自分の小学校の卒業式は病院でした。病院の講堂に小学校の校長が来てくれて卒業証書を手渡してくれました。卒業生はもう一人、彼女は浜頓別の子で、院内学級の先生から卒業証書をもらったはず。卒業から少しして地方の市立病院から大学病院に転院となり、同級生たちが入学式を迎える頃、大学病院で手術を待っていました。

自分にとっての中学の入学式は1年後でした。入院生活は小学校6年生の12月から1年3ヶ月になり、本来であれば退院後は中学2年になるはずです。しかし、体力的にもひどく落ちていて、入院中はまったく勉強もしていません。手術を終えて地元に戻ってから形の上では院内学級に復学していましたが、通えたのはわずかしかありませんでした。中2から復帰では辛いだろうと考えた両親が教育委員会と話し合い、入学を遅らせたんです。これは恐らく前代未聞のこと、すんなり教育委員会が認めるはずがありませんから、両親だけでなく、小学校の担任の先生、院内学級の先生、主治医の先生、いろんな人が動いてくれたのは想像に難くないことです。もちろん自分にはそんな経緯は知らされませんでしたが・・・。

1年遅れて入学ということは元の友達とは学年が違ってしまいます。その頃の自分はひどく無気力で投げやり・・・どうでもいいや・・・という心境でした。元の友達はどうやって接したらいいのかわからなかったんでしょうね。元の同級生との交流はまったくありませんでした。

今思えば、中学1年からやり直したことで勉強の遅れを取り戻して医者になれたことは間違いなく、たくさんの人に感謝しなければなりません。当時はそんな気持ちにはとてもなれませんでしたが・・・。

入学式の決まり文句「期待と不安に胸をふくらませて」と言いますが、自分の胸はほとんど空虚で少しの不安だけがありました。

入学式の時、自分は入学の前に揃えておかなければいけないものを何も持っていなくて、やっとまばらに生えてきた髪が眉にかかっていると担任の先生に注意されて・・・パニックになってしまい、家でわんわん泣いたのを思い出しました。

入学式を迎えた息子には苦労をしてもらいたくないなと思います。たくさんの苦労が自分の糧になったのは間違いありませんが、息子には挫折を味わってもらいたくない。楽に生きていって欲しいと親ばかなことを考えていました。ふと、あと6年したら息子が手元から巣立っていくのだと思い胸が苦しくなりました。

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2009年8月31日 (月)

院内学級

ドラマ『赤鼻のセンセイ』が放送中です。

入院中の子どもたちが通う病院の中に設けられた学校=院内学級が舞台のドラマです。これまで院内学級がドラ
マに登場したのを見たことないですね。主演は郷土のスター『大泉洋』です。

話の筋はかなりどうでもいいんですが、院内学級を潰してNICUを作るなんてことになってます(笑)。ちょっと無理ある話でしょう。

でもまあ、すごくおもしろいと言う訳じゃないけど、よいドラマと思います。

最近知ったのですが、このドラマの監修として横田雅史教授(帝京平成大学)のお名前があります。
横田雅史先生は自分が小学校の時、院内学級でお世話になった恩師です。当時の旭川市立病院の院内学級にはたくさんの子どもたちが学んでいました。昔は腎臓疾患の子の入院期間が長かったので院内学級はとってもにぎやかでした。

横田先生は自分が院内学級に入って数ヶ月で退職し、その後、大学院にすすんだと記憶しています。それから長い年月が過ぎて、小児科系の学会で文部科学省の病弱児教育のトップとして活躍する横田先生の名前を発見しました。今は大学教授に転じたようですね。恩師である横田先生が病気の子どもたちのために力を尽くしてくれていることを知って、本当にうれしいです。

院内学級の時代を振り返るとほんとに懐かしい。在籍したのは1年半ほど、でも入院期間のほとんどは調子が悪くて院内学級にも通うことができませんでした。ベッドサイドまで来て勉強を教えてくれた先生のことも思い出します。退院後、メインテナンスの入院を繰り返している時も、学校に今ひとつなじめずにいた自分にとって院内学級は安心して逃げ込める場所でした。

考えると自分は恵まれた環境にいたことになります。院内学級は当時、当たり前に存在していたわけではなく、病弱児教育に情熱を注ぐ横田先生はじめとした先生たちのおかげだったんですね。

子どもたちにかかわる仕事はいいものだと、再認識しています。

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2008年11月22日 (土)

11歳

先日、上の息子が11歳になりました。生まれてうちにやって来てからそんなに経ったかなあ・・・という感じです。

自分が小児がんを発症したのは11歳の時でした。あれから30年になるんですね。
何とも感慨深いものです。
先が見えなくて、大人になった自分を想像できずに思春期の頃はもがき苦しんでいました。医学部に入学した頃も自分が生きていて医者になれるのか信じきれないおかしな心理状態でした。
そんな自分が今は息子の成長を見守っているなんて・・・

息子を見ていると、やたら大人な部分とあれっこんなに子供だったっけという部分が混在していてバランス悪い年代ですよね。思い出してみると自分もそんなだったなあと思います。

頭の中にはもっといろんな思いがあるのですが、表現するのは難しいです。

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2008年7月12日 (土)

まいちゃんの事

新人研修医として大学病院に勤務していたのはもう十数年も前になります。当時一緒に働いていたナースがあちらこちらにいて時々顔を会わせます。大学病院でのナースと新人研修医の関係はまさにご主人さまと奴隷。(当時のはなしです、今はだいぶ変わってます)常に命令する側とされる側。正直なところいい印象を持っている人はほとんどいません。

その中で廊下で会うたび親しみを込めたあいさつをしてくれるナースがいます。そのたびにある子の事を思い出してうるうるしてしまいます。

まいちゃんは10歳の女の子、遠い町から来て入院していました。白血病で1年以上の入院になり、すでに治療の施しようのない状態でした。そのナースは当時、まいちゃんの受け持ちをしていました。

わたしたち研修医は1ヵ月ごとに心臓、新生児などの診療グループをローテートしていました。研修医は1ヵ月間、採血、点滴などの処置、カルテ書きなどを担当します。まいちゃんの状態は非常に悪く、本人の精神状態も不安定で新人研修医にとって重荷である子でした。採血をしくじった研修医が叩かれたなんて事もあって、わたしもとても緊張していました。

血液グループに配属された初日の朝、ずっと部屋に閉じこもりきりのまいちゃんとはじめて会いました。長く外にでていないまいちゃんは色白で貧血のため透き通るような肌、でもステロイドのせいでふっくらしていました。はじめて会ってすぐに採血です。お互いに緊張していたでしょう。1回目はうまくできず冷や汗をかきながら2回目で何とか採血ができました。その後はよっぽど相性がよかったのか採血、点滴、骨髄穿刺などの処置で失敗する事はまったくありませんでした。

入院している子どもにとって処置が下手なDrはもっとも嫌われます。それと逆の理由なんでしょう、まいちゃんとわたしはすぐに仲良しになりました。当時の血液グループには重症の子がたくさんいて1ヶ月間ほとんど病棟に缶詰の状態でした。まいちゃんは消灯が近くなる頃になるとドアを少し開けて椅子に座って廊下を覗き、わたしが来るのを毎日待っています。消灯の時間でもわたしの仕事は終わらないのですが、ひと休みしてまいちゃんの部屋に行くのが日課になりました。何を話したのかなぜかほとんど覚えていませんが、まいちゃんが椅子に腰かけたわたしの膝に乗りいつもうれしそうにしていたのだけをよく覚えています。付き添っていたお母さんは気を使って(?)その時間には部屋を離れていましたね。

すごく長い時間に感じましたがたった1ヵ月間のことです。血液を担当した1ヵ月が過ぎた頃、まいちゃんの容態はさらに悪くなり命の灯は今にも消えそうな状態でした。血液担当の1ヵ月が終わって数日したある朝、まいちゃんの目が見えなくなり不穏状態になっていると聞きました。わたしは担当の子の手術に付き添わなければならず、居ても立っても居られない状態で手術室に向いました。やっと手術が終わって病棟にもどった時、まいちゃんの部屋からはお母さんの泣き声が響いていました。

これまでの人生で一番泣いたのはこの時ですね。
自分がこの分野を専門にするのは無理と自覚したのもこの時です。

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2008年2月11日 (月)

特別支援学級

病院のロビーに、院内学級の子どもたちの作品がいつも飾られています。時々、昔を思い出しながら足を止めて見てしまいます。

自分が院内学級に通っていた頃(退院してからもメンテナンス治療で入院すると短期でも頼んで通わせてもらってました)、もう何の作品だったかは覚えていませんが先生からデパートの作品展で飾るよと言われた事がありました。

うれしいような恥ずかしいような半々の気持ちで見に行った記憶があります。
でも、覚えているのはそれが特殊学級の作品展だったこと・・・
当時の自分にとっては大変なショックだったんですよね。あの頃は学校にろくに通えず体育も見学ばかり・・・自分のプライドと言えば成績が多少よい事くらいでしたから。

今になって考えれば何て事ない話ですし、不快に思う方がいるかもしれません。
自分からは縁遠いものと見下す感情があったのは確かです。知らず知らず自分が見下していた側に回っていたのがショックだったんです。

今は特殊学級の名称はなくなって、特別支援学級と言うのですね。

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2007年1月20日 (土)

プレドニン(闘病記8)

プレドニンは副腎皮質ホルモンあるいはステロイドと言われる薬の一種です。
闘病中に使った抗がん剤のことは以前書きました。今回はプレドニンについて思い付いたことを書いてみたいと思います。

プレドニンに限らなければ、ステロイドを使うことは日常の診療の中でもしばしばあります。わたしが専門としている新生児医療においても、血圧低下、低血糖なんかで使うこともあれば、慢性肺疾患と言われるやっかいな病気の際に仕方なく使うこともあります。
新生児以外の小児科でもネフローゼ(腎臓の病気)、気管支ぜんそく、アトピー性皮膚炎、白血病、膠原病などホントにたくさんの病気の治療薬として使われています。

これだけの病気に効果があるよい薬ですが、特にアトピー性皮膚炎で軟膏として使う際には、お母さんから思わぬ強い拒否反応が出ることがあります。ここでアトピー性皮膚炎治療の詳細を書くことはしませんが、いわゆるアトピー商法にからんで出回っている情報によってステロイドが悪い薬と思い込んでいるお母さんがたくさんいます。外来でステロイドが恐いと訴えるお母さん達は、ステロイドを薦めてくるわたしのような医者も悪いやつと思っているかもしれません。わたしはステロイドの恐さを実体験として知ってるんですけどね。

悪性リンパ腫の治療においてもステロイドは重要な役割を果たします。わたしの場合、治療開始まもなくからステロイドはずっと飲んでいました。あのちっちゃくて飲み込み損ねると苦い薬・・・。
入院して3ヶ月ちょっと経った頃、いわゆる試験開腹を目的として大学病院の外科に転院となりました。ところが入院したのになかなか手術となりません。当時、聞いた話としては執刀する助教授が出張でいないんだとか・・・。抗がん剤の治療は中断されていて、その間、大量のプレドニンを飲み続けることになりました。そうこうしながら手術が終わり元の病院にもどって少しして、プレドニンの恐ろしい副作用が出てしまいました。入院から半年くらい経った頃のことです。腰を曲げた途端に激しい痛みが・・・。これ以前も以後も体験したことのない激しい痛みでした。プレドニンの副作用で骨が脆くなり、腰の骨がつぶれてしまいました。闘病中この寝たきりの時期がもっとも辛かったと思います。あまりの激しい痛みだったため、恐くてなかなかリハビリを始めることができませんでした。きっと本当はもっと早く歩くことができたはずですが、自信が持てずにかなりの期間ベッドの上で過ごすことになりました。この時に励ましてくれた看護実習生(前に書いた人です)がいなかったら、もっと長くベッドで過ごしていたでしょう。治療が終わってからもしばしば腰痛が出て、大学時代かなりひどい時もありました。幸いながら今はほとんど痛むことはありません。

ステロイドはよく切れる諸刃の剣です。昔からある古典的な薬ですが、これで命を救われる患者は今でもたくさんいます。免疫の研究がもっと進んで自在に免疫を操れるような時代になれば、昔はあんな副作用もある野蛮な薬を使っていたんだと振り返る日がくるでしょう。しかしながら、その日が来るまではステロイドが重要な薬であることに違いはありません。

わたしが腰痛で動けなくなった頃、こんな薬飲ませない!と母が主治医に言って、逆に叱られていたのを思い出します。

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2006年12月15日 (金)

ラジカセ(闘病記7)

入院してまもなくにラジカセを買ってもらいました。中学に入学するお祝いに買ってもらう約束をしていましたが、入院することになったのでちょっと早く買ってもらえることになりました。当時ちょうどステレオのラジカセが出回ってきた頃です。カタログで選んだのはソニーのステレオラジカセ。何でも買ってもらえそうな雰囲気でしたが、あまりに高いので気を使って二番目に高いのが欲しいと頼んでみたら買ってもらえました。このラジカセで初めて聞いたのは確かゴダイゴの「モンキーマジック」でした。「西遊記」ですね。ステレオで聴こえる音にワクワクしました。最近こんな新鮮な感動ないかも。
当時の病室にはテレビはなく、外泊すらできなかった半年以上の間このラジカセだけで外と繋がっていたわけです。入院した頃はまだ深夜放送は聞きませんでしたが、ラジオはよく聞いていました。ラジカセでもテレビの音声だけは聞けたりして。ローカルネタですが「ベストテン北海道」は毎日聞いてました。入院中にものすごく流行った「異邦人」久保田早紀、退院する頃にはテレビで見かけなくなっていたので顔知りませんでした。
当時ラジカセから聴こえていた音楽が本当に懐かしく思えます。中でも好きだったのはサザンオールスターズです。デビューが入院の年と一緒。「いとしのエリー」はいったい何度聞いたのかわからないですね。音楽を聞くと古い思い出が蘇ってきますが、その頃の音楽を聴くとほんと、センチメンタルな気持ちになります。入院の最後の方では中島みゆきさんが好きで深夜放送も聴くようになっていました。オールナイトニッポン懐かしいなあ。でも、昼間寝ていて深夜放送なんて不良患者でしたね。

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2006年10月 4日 (水)

看護実習生(闘病記6)

病棟には例年通り看護実習生が数人来ています。今来ている学生の中には男子学生も混じっています。いつも厳しい担当のナースも彼には何かいつもと違う雰囲気(笑)。やっぱり見た目も大事なの?

自分が入院していた頃にも病棟には看護実習生が来ていました。学生さんが担当するのは慢性疾患で、そこそこ落ち着いた病状の患者です。わたしも学生さんの担当となることがありました。いつも暇で暇で仕方ない病棟の子どもにとっては、いい気晴らしの相手になってくれます。その頃に担当してくれた看護学生で、いまだによく覚えている学生さんがいます。当時、大量に使ったステロイドの副作用で腰椎が圧迫骨折を起こして、ほとんどベッドの上で過ごす生活をしていました。そんな状態でしたが、腰椎穿刺(ルンバール)をしなければいけなくなりました。その日、主治医が不在だったため他のDrがやることになったのもあって、ものすごく不安になってしまいました。痛い腰に針を刺される恐怖と、いつもの主治医のDrじゃない不安とでパニックに・・・。腰椎穿刺はしっかりと患者が腰を丸めてくれないとうまくいきません。腰を痛がって丸まろうとしない自分を看護師も強引に押えつける事ができなかったんでしょう。結局その日は失敗となってしまいました。看護学生さんは処置の間ずっと必死な顔でわたしの手を握っていてくれました。その場ではまったく役に立っていなかった学生さんですが、その時の学生さんの顔や握っていてくれた手の印象は今でも鮮明に残っています。名前も覚えているんですが、今でも看護師を続けてるでしょうか?

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